2010年7月4日日曜日

総括

共産主義者が共産主義を引退したため活動しばらく停止します。。

2010年3月15日月曜日

怠け者になる権利を肯定しよう!

万国の労働者ならびに人民のみなさん!
以下先ほど急遽作成された声明を掲載します。
たんとご賞味あれ!


声明:怠け者になる権利を肯定しよう!

私たちは働きたくない者の生存権を肯定します。
それは私でありあなたでありあなたたちであり私たちです。
それは現代の人権の基礎です。

すべての者が働きたいと思うような社会は悲惨であり不幸です。
同様にすべての者が働きたくないと思うような社会も悲惨であり不幸です。
しかしそんなことは本当のところどうでもいいのです。
なぜなら大切なのは自分自身だからです。
私たちの社会に必要なのは働きたくない気持ちを肯定する道徳的倫理的態度です。
それは働くことを否定することではなく働かないことを肯定する態度ではありません。
それは働きたくない気持ちを肯定しそのような心情を有していても生きていける社会を構築することを希望するという態度です。
それゆえそれは一つの思考実験でもあるのです。

私たちは生存賃金に反対です。
それは端的に働きたくない気持ちを肯定していないからです。
働きたくない気持ちはとても微妙で繊細な気持ちです。
それは「働かないとたしかに食えないし世の中回らない」という良識とともに「でも働くことに喜びを見出せない」という現実とのあいだの揺らぎや「今の仕事は楽しいけれどこの給料じゃちょっと」「こんなに忙しいんじゃいくら給料もらっても身体がもたない」という気持ちの前提にある私たちの現実行為を否定しているからです。
生存賃金は上記のような私たちの社会的実態を度外視しています。
一方私たちは労働は美徳であるとする資本主義的道徳観念にも反対します。
それは働きたくない気持ちを抑圧するからです。
それは精神的な苦痛を与えます。
それは端的に健康を害します。
そしてそれは労働条件を劣悪化させます。
そしてそれは多くの場合生産性を低下させます。
働くことは道徳でもなく倫理でもなく、そしてたんなる金儲けでもない独特な何かです。
それはたぶん働く人の数以上に無数の解が存在するような多義的で重層的で非決定的な何かなのだと思います。

私たちが主張したいことは、労働を単一の尺度に当て嵌めようとするあらゆる制度と思想に否をつきつける必要があるということです。
そのためには労働の本来的な多義性と重層性を解放することが必要です。

私たちは伝統的な共産主義思想の労働道徳にも反対します。
それは人間の本質を労働と規定し人間を労働の属性に抽象化しているからです。
そもそも人間とは抽象化不可能な存在です。
なぜなら私たちは具象的な存在だからです。
内臓の中では物質がドロドロと溶かされ心臓からは血液がドパドパと出され泌尿器からは小水がジョジョっと出されほんわかと湯気と匂いが立ちあがります。
年齢を重ねるとこのことの実感はますます増大します(卓越した若年者諸君なら理解出来るでしょうが)。
加齢臭とは神が人間に与えたもうた恩寵です。
いくら社会システムが複雑化、高度化しようと人間はアナログであり動物です。
人間の行為と認識が抽象化されたとしても人間自身は抽象化されえないのです。
この具象たる存在を労働の属性へと解消することで抽象化してしまったのが伝統的な共産主義思想における労働概念です。
それは労働「力」の、資本主義的労働市場(流通過程)における労働力商品としての振る舞いならびに(資本の)生産過程における労働力の現実的な振る舞いという事実判断と、この判断内容を逆用(階級的団結&階級闘争)して社会的に行使することにより資本主義を克服しようとする戦略的な規定(価値判断)にもとづいています。
ところで歴史が証明したところによって私たちは計画経済の不可能性を知っています。
それは端的には労働力の指揮命令権が国家にあっては生産性が低下するということを意味しています。
しかし問題は本当に生産性の低下だけなのでしょうか?
社会主義国家では生産性の低下を問題視しなんとかその向上に努めようと努力しました。
その結果労働とは道徳であり国家に対する忠誠心の表れであるとする思想が蔓延し働き者は英雄であるとする「スタファノフ運動」が出現しました。
しかしその運動も破綻し社会主義圏の経済はその後低迷を続けます。
1991年のソ連崩壊自体はエリツィンによるクーデターであり正当性はありません。
現にソ連市民の多くはソ連邦の存続を支持していました。
しかし経済的にはやはり早々に破綻していたと予想することが容易に出来ます。
それゆえ旧社会主義国家は敗北したのではなく自滅したと私たちは考えます。
この自滅の原因はさまざまありますが、決定的に重要な要素の一つは革命主体の労働者の規定を労働力として一面的に捉えていたことと関係していると考えます。そしてその規定における誤りを道徳な問題として解消しようとしたところに誤りがあったと考えます。
ここでまたまた話は逸れてしまいますが自由市場における労働力は抽象的な側面を強く有しています。売り上げ、成長目標などが数値化されています。そして何よりも資本の増殖という抽象的な運動の属性としての労働力という大前提が厳然として存在しています。そのような意味では社会主義よりもその抽象性は高いといえます(社会主義は物質生産―労働―人間という関係であるのに対して資本主義では資本の生産―労働―人間という関係です。それゆえ私たちはソ連=資本主義国家規定は誤りであると考えます。ソ連はやはり社会主義を目指していたとかんがえます。ソ連を資本主義国家であると規定することは、商品の本質が労働力の商品化であるという点を考慮していないという意味でそもそも資本主義分析自体に誤謬があると考えます)。
私たちは現代における共産主義運動は自由市場の存在を前提とすると考えます。そしてそうである以上抽象的な労働力概念は必須であるとかんがえます。では現代の共産主義者であるわたしたちはどのような人間規定と労働規定を行うべきなのでしょうか?それはまたどのような根拠にもとづいているのでしょうか?

問題は労働力の抽象化をどう捉えるかということとその抽象化が行われる際発生する具象の残骸をどう捉えるかということにかかっているとかんがえます。
わたしたちが労働を行うということは社会的な行為です。それはある特定の対象に対して行使される行為です。そして労働力が交換を前提とする以上、交換行為という側面をも有しています。特定の対象に対する行為であるということとそれが交換(貨幣、商品、サービスなどと)されるということによって労働は社会的な性格を有します。これが労働の抽象化の資本主義、社会主義に関係なく分業社会に普遍的な事実です。
資本主義社会と社会主義社会の労働の抽象化は次の段階によって規定されます。それは搾取の問題です。資本主義社会においては富の源泉は労働力の行使、すなわち労働であり剰余労働すなわち労働力商品とその他の商品の不等価交換にあります。社会主義社会においても富が必要とされる以上富の源泉は搾取労働にあったのですが、決定的な違いがあります。それはその程度を国家が決定し、その国家は労働者の個々の生産性に負っていたのです(でないと社会主義は自滅しませんでした)。つまり決定権は労働者にあったのです(むろんその結果経済が回らず「囚」人労働に多くを負っていたりという矛盾が存在していたのですが)。対して資本主義社会では資本の平均利潤率の獲得ならびに創業者利潤ならびに最高売り上げ目指して外的な競争力として個々の労働者を駆り立てています。この段階で資本主義社会と社会主義社会では決定的な相違があるのです。決定主体が国家という擬制を介した労働者にあったのかそれとも資本という抽象的実体にあったのかという違いです(これまた横槍ですが生産手段の所有者が国家にあるのか個人にあるのかという点も非常に重要な違いです。前者の場合、国家とは擬制ですからそれは実体的ではありません。それゆえ皮肉なことに社会主義社会では独裁と軍事的抑圧が不可避だったのですが、後者の場合社会的な現実的力として存在します。社会主義国家が独裁と軍事的抑圧が緩和されるや否や「革命」が起きたのに対して資本主義国家では起きにくいことの根本的な違いがここにはあるのです。それは表面的な「人権」や「民主主義」とは異なったレベルでどちらがより道徳的で倫理的な「社会」であったのかということと同じ質の問題であると私たちは考えます)。そしてさらに個々の労働者の主観に関わる問題としても設定されます。それは労働者にとっての労働道徳と労働倫理に関係します。資本主義社会における労働が抽象的人間労働であること、そして抽象的人間労働が具象的な労働行為を搾取の方向性で組織化すること、このことから資本主義社会では労働は道徳的倫理的な色彩を帯びます。それは労働の社会的性格に関係することです。それは賃労働のなかで労働の差別化と権威化をもたらします。それは特に知的な労働が優位にあり肉体的な労働が劣位にあるような観念をもたらします。社会主義においても表面的にはそうでした。しかし社会的な差別というのは存在していませんでした。清掃労働者が計画経済指令室よりも下位にあるとは理解されていなかったのです。資本主義国家では抽象的な労働概念が社会主義国家よりもより「洗練」されています。それゆえそれはより内面的で主体的な形態を取らざるを得ないのです。とくに社会において信仰などの価値観が共通していない社会においてはそうです。「天皇」制も「伝統」も「村落共同体」の論理もそれらは表面的なものでしかないのです。
私たちは労働者階級が自己の政治権力を自己自身の解放のために行使することと、自己の労働力を自己の解放のために行使することとは同じ本質の異なる二つの現象であると理解しています。それは議会を通じた民主主義的な権力獲得と自由市場における利潤の達成ならびにその分配および市場競争に関する外部的規制をも同時に意味します。
つまるところ私たちは自由市場において搾取されつつ利潤を達成しながらその利潤の使い方について合意し納得し分配するという運動を現代的な共産主義運動と理解しているのです。それは自由市場と複数政党制を前提とした共産主義運動です。この運動の核心は労働者が権力主体であるという現実を客観的なものから主観的なものへと転化することによって可能となると考えます。民主主義と自由市場はそれを目的意識的に労働者人民に適合させることが現代の共産主義運動なのです。
そして社会民主主義との決定的な違いは、市場における労働者運動の先進的な役割について共産主義運動はそれを積極的に推進する立場に立つというものです。
つまり私たちは運動として資本主義において労働し、搾取され、しかも出世することはある意味で正しいと考えているのです。とはいえ私たちは私たちが労働力商品であること、そしてそれゆえつねに競争に晒されていること、さらにその競争は非常に熾烈であり、かつその競争の支配するところはとどまるところを知らないがゆえに競争そのものの一部と化してしまう人間が多く存在することを知っています。それゆえ私たちの運動は非常に困難なものとならざるを得ないのです。
そしてさらに私たち自身の労働規定問題が存在しています。この問題は私たちにとっては資本主義が生み出す労働観念よりもさらに深刻な問題を私たちにもたらします。
私たちは私たちの運動が道徳的倫理的欲求に負っていることを明らかにしました。しかし同時に私たちは労働行為そのものを道徳的倫理的な対象にすることに反対します。なぜならそれはその結果が「働きたくないと考えることは悪である」ということになるからです。これはその内容が宗教的であるから問題であるという以上に、私たちの道徳的倫理的な欲求に反するから問題なのです。それはそれが基礎とするところの自由意志に反するから問題なのです。さらにそのような自由意志に反する内容というものはそれを基礎とする道徳倫理運動としての共産主義運動の停滞を招きます。そしてそれは現に歴史がそれを証明しています。
それゆえ私たちは労働を道徳的倫理的に判断することを拒否します。
私たちは労働の抽象、具象規定を捨象して考える必要があります。それは社会的であるか私的であるかという範疇の捨象でもあります。それは労働とは何であるのか?という問題になると思います。そして私たちは労働とは自身の外化であると考えます。そしてそれは外化である以上外部を必要とし、外部との交流であるということだと考えます。この外化が洗練された形態として抽象的人間労働のとくに利潤獲得運動が存在しているのでしょうが基本的には自己の外化であるとかんがえます。
人間は自己を外化するだけでは空っぽになってしまいます。そしてまさに抽象化が進めば進むほど労働のもうひとつの側面である消費も抽象化されます(労働は外部と自己の労働力の消費を通して外的な何かを生産する行為である)。労働ならびに生産場面での内化とは一時的なものです。それは消費における外化(貨幣を渡す)が一時的な行為であることと同じことです。意外に思われるかもしれませんが、私たちが貨幣を消費することとは私たちの経験のなかでは表面的で一時的な行為なのです。それに比べれば読書する、音楽を聴く、友人と話す、勉強するということがどれだけ豊富な消費であるかが理解出来ると思います。同じことは労働における内化にもいえます。それは外化されるための一時的な何かです。むろんそれは経験や勘といった事柄において蓄積されますが、それは外化されることによってはじめて証明される何かであるという意味で一時的なのです。
まさに生産と消費、労働と消費という主題に潜む副題の特徴を正しく把握することが決定的に重要であると私たちは考えます。

私たちが主張することはつまりはこういうことです。
一般的に労働とは外化する行為であり、内化するのは一時的である。それゆえそれは疲労する。そしてさらにそれが抽象化すればするほど疲労する度合いは強くなる。それを消費において回復させようとすればするほど抽象化は上昇する。マルクスは生産とは消費でもあると規定していましたが、生産における消費と消費における生産は違います。生産における消費は自身をも含まれます。そして消費における生産は貨幣の他者への譲渡です。それは一瞬で済みます。消費における消費は持続的です。それに対して生産における生産も持続的です。
これは一般的な事柄の性質を示す以上のものでも以下のものでもありません。これが明らかにしていることは行為の精神との関係で明らかである外形的で一般的な性質についてです。
私たちが労働において道徳的倫理的価値判断を避けつつ労働概念の事実判断として確認したいことがもう一つあります。それは労働対象の抽象的対象性です。それは労働の主観的性格という事柄にも関係すると考えます。それは私たちが外化している主体である労働のその対象的行為の抽象的性格ならびにそれへの評価を指します。それは利潤ではなく、その具体的な有り様ならびにそれへの主観的評価です。行為の抽象的性格を肯定的に捉えることを否定しないこととは、つまり自身の労働行為を格好良いと考えることを否定しないということです。それは簡単にいえば職能主義です。
職能主義は一つの事実判断の範疇です。そしてそれは端的に労働と精神のひとつの結合様式であると考えます。とはいえそれは二つの条件を必要とします。一つは主体の観念や意識に規定されるという条件です。そしてもう一つは労働対象に規定されるという事実です。それらは物理的な閾値や機械的な区別に基づくわけではなく複雑な結合様式を示すがゆえに広範で多様な形態を示します。
ようやっと「怠け者になる権利を肯定しよう!」という結論を述べるための準備が整いました。
私たちは労働に対する事実判断として現代における労働とは外化であり、とくに抽象的人間労働を媒介とした被搾取労働は人間を破壊するほどの抽象化と高速化をもたらしていると考えそれに対して人間の具象性と生命的な速度(細胞の分裂回数は規定されており、そして私たちの体内時計は地球が太陽の周りを回る公転によって規定されている。つまりわたしたち生命には生命独特の「具象」的な時間があるのである!)を対置したいと考えます。そして私たちは同時に労働の外化がもたらす対象的行為の抽象的性格について、それを肯定する主観を否定しません。そしてそれは恐らく伝統的な労働者性と言われているものの範疇なのであると考えます。
しかしそのような対象的行為の抽象的性格の把握(感じるか否かだとは思うのですが)、ならびその肯定という主観の運動はあくまでも自由意志ならびに可能な環境でなされるべき事柄であると考えます。つまり感じなくても全然OKということなのです。
そしてそれは端的に「労働に全然価値や喜びを感じない」という主観性に対する肯定です。
私たちはそして、たとえ職能主義を有していたとしても、またいかなる理由であっても「働きたくない」と思うことは当然であり自由であると考えます。そして私たちはそのような気持ちを有しつつも自身が生存出来る社会こそ良い社会だと断言します。私たち自身は職能主義的な傾向を有する人々が多く集う集団です(私たちの先祖は義人同盟という職能集団で、私たちは170年を経て再びそこからやり直すべきではないかと相談しています)。しかし怠け者になる権利を肯定することは私たちの集団の性格とは反しません。それはむしろそのような社会を私たち自身が作ろうという意味で非常にやりがいのある仕事であると考えます。
私たちは私たちの労働組合に多くの共産主義者労働者が結集することを訴えるとともに怠け者になる権利を断固として肯定します。

資本主義的労働道徳と社会主義的労働道徳。
それらの二つは現代社会の双頭のヤヌスのようなものです。
しかし私たちはその双頭のヤヌスに反して一人純粋であるかのような「反労働」概念にも反対します。
それは一つの規定であるからです。
その規定はつまり「労働はダメだけど遊びはOK」というものです。それは多数の労働者の現状には即していません。一部の「才能」溢れる(そして商魂逞しい!)労働者にのみ適用可能な概念でしょう。
それゆえ私たちはあらゆる労働の道徳倫理的判断の社会化に反対します。

私たちは労働、非労働両方の機会が豊富に保障されることを望みます。
私たちは労働者、非労働者両方の生存権が肯定されることを強く望みます。
私たちは労働者と非労働者両方の諸権利が拡充されることを強く望みます。
私たちは労働、非労働という社会的分断が解消されることを強く望みます。
私たちは私たちが互いに自由に結合し分離できることを強く望みます。
私たちは上記の目的を達成するために怠け者になる権利を肯定します。

自分自身と人間に愛をこめて。

2010年3月15日 共産主義者労働者労働組合日本委員会